量子論とは?わかりやすく5分で解説
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量子論とは、量子という粒子と波動の二重性を持つエネルギーの最小単位に関する理論のこと。
相対性理論とともに現代物理学の二大理論とされる。
歴史
量子仮説
19世紀後半、普仏戦争に勝利したプロイセン(現ドイツ)は、鉄鉱石と石炭の産地アルザス=ロレーヌ地方を得たことで製鉄業が発展した。良質な鉄を作るには炉内の温度を正確に知る必要があり、当時は溶けた鉄の発する光の色から感覚で温度を推測していた。
1900年、ドイツの物理学者プランクが、光の色と温度の関係を数式化した(プランクの公式)。彼はこの式から、光のエネルギーが不連続で最小単位(量子)の整数倍しか存在できないことを導いた(量子仮説)。
量子仮説は、物理量が切れ目なく連続的に変化すると考える従来の物理学の常識に反していた。1918年、プランクがエネルギー量子の発見でノーベル賞を受賞した。
光量子仮説
20世紀初頭、光は波と考えられていた(光の波動説)。光を波と考えた場合、そのエネルギーは振幅(波の高さ)に比例する。しかし、物質に光を当てた時に電子が飛び出す現象(光電効果)では、飛び出した電子のエネルギーが振動数に比例していた。
1905年、ドイツの物理学者アインシュタインが、光はエネルギーを持った粒子(量子)の集まりと考えた(光量子仮説)。光量子仮説では、エネルギーは振動数に比例し振幅は量子の数に比例すると考える。
すると光電効果がうまく説明できたため、光は波と粒子の性質を持つとされた。1921年、アインシュタインが光電効果の法則発見でノーベル賞を受賞した。
物質波(ド・ブロイ波)
1924年、フランスの物理学者ド・ブロイが、波と考えられていた光が粒子の性質を持つなら、粒子と考えられていた電子が波の性質を持つのではと考えた。彼は、粒子の波としての振る舞いを物質波という概念で表した。
1929年、ド・ブロイが電子の波動性の発見でノーベル賞を受賞した。
シュレーディンガー方程式
1926年、オーストリアの物理学者シュレーディンガーが物質波の方程式(シュレーディンガー方程式)を発表した。この式を解くと、物質波の形(波動関数)を求めることができる。1933年、シュレーディンガーが新形式の原子理論の発見でノーベル賞を受賞した。
ボルンの確率解釈
1927年、ドイツの物理学者ボルンが、波動関数は電子が存在する位置の確率を示すと主張した(ボルンの確率解釈)。電子の存在確率は波の山と谷で最大、横軸と交わるところで0と考える。1954年、ボルンが確率解釈の提唱でノーベル賞を受賞した。
ハイゼンベルクの不確定性原理
1927年、ドイツの物理学者ハイゼンベルクが不確定性原理を発表した。不確定性原理とは粒子の位置と運動量、時間とエネルギーといった物理量の関係は、同時に正確に測定できないというもの。
1932年、ハイゼンベルクが量子力学の創始等の功績でノーベル賞を受賞した。
二重スリット実験
粒子と波動の二重性を示す実験として、二重スリット実験がある。二重スリット実験とは、2本のスリットがある板に向けて電子を1個ずつ発射し、その後ろにあるスクリーンに衝突した電子の跡を観測するもの(本記事トップ画像参照)。
もし電子が粒子の性質しか持たないなら、スクリーンにはスリットと同じ2本の線の跡が現れる。しかし、実験では電子の跡の集合は濃淡模様となり、波で二重スリット実験を行った時に現れる干渉縞のパターンと一致した。つまり電子は波の性質を示した。
次に、電子がどちらのスリットを通過するか観測するため検出器を置いて実験を行った。するとスクリーンには干渉縞でなく2本の線が現れた。つまり電子は観測していない時は波として、観測した時は粒子として振舞った。
コペンハーゲン解釈
デンマークの物理学者ボーアらが、今日の量子論における標準的な解釈を提示した(コペンハーゲン解釈)。コペンハーゲン解釈とは、量子は複数の状態が同時に存在し観測によって一つに決まるため、観測前の状態は確率的にしか予想できないというもの。
現象が確率に支配されるという考えは従来の物理学にはない。たとえば二重スリット実験では、電子が左のスリットを通過した状態と右のスリットを通過した状態が同時に存在し、スクリーンに衝突すると一つに収縮すると考える。
コペンハーゲン解釈が不完全と考えたシュレーディンガーは、量子の作用で50%の確率で毒ガスが発生する箱に猫を入れる思考実験(シュレーディンガーの猫)を提示し、箱を開けるまで生きた猫と死んだ猫が存在する奇妙さを指摘した。
別の解釈に、量子が収縮せずに世界は可能性の分だけ枝分かれするという考え(多世界解釈)、量子は粒子だが未発見の変数が奇妙な振る舞いを生じさせているとする考え(隠れた変数理論)、量子は粒子だが波に乗っているとする考え(ボーム解釈)等がある。
ディアトロフ峠事件とは?わかりやすく5分で解説
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ディアトロフ峠事件とは、1959年にソ連の雪山で9名が死亡した不可解な事件のこと。
当時のソ連と現ロシア当局は、自然が原因との見解を示している。
事件の概要
事件発生前
1959年1月27日、ウラル科学技術学校の学生とOB男女10名からなるグループが、ウラル山脈にあるオトルテン山を目指しスノートレッキングを開始した。彼らは難易度の高いルートを選択したが、メンバー全員豊富な経験を有していた。
1月28日、メンバーのユーディンが体調不良で離脱し唯一の生還者となった。以降、彼らの行動はカメラと日記をもとに推測されている。2月1日、一行は吹雪で道を誤り、ホラチャフリ山(現地マンシ族の言葉で死の山の意)の斜面にテントを張った。
事件発生後
2月20日、親族の要請で一行の捜索が始まった。2月26日、荷物が置き去りにされた状態の破れたテントを発見した。そこから森に向かう足跡があり、1.5km離れた杉の木の下で焚き火の跡とともに、クリヴォニシェンコとドロシェンコの遺体を発見した。
2月27日以降、杉の木とテントの間でリーダーのディアトロフ、コルモゴロワ、スロボディンの遺体を次々に発見した。5月5日、テントからさらに離れた地点に掘られた避難用の穴でコレヴァトフ、ドゥビニナ、ブリニョーリ、ゾロタリョフの遺体を発見した。
不明な点
木登りの痕跡
杉の木にドロシェンコが登った痕跡があったが、何を確認しようとしたのか。杉の木まで避難した後、木に登りテントの位置を確認し、その場で2名が凍死、テントへ引き返す途中で3名が凍死したとの考えがある。
内側から破られたテント
調査の結果、テントは内側から破られていた。つまり、彼らは自らテントを破ったとされるが、なぜ気温約マイナス30℃の外に出たのか。
短い歩幅の足跡
テントから森へ向かう足跡の歩幅が短かった。なぜテントを破るほどの事態で極寒の中急いで移動していないのか。
靴を履かず薄着の遺体
靴はほとんどテントに残され薄着の遺体もあった。なぜ雪山で靴も履かずに薄着でいたのか。靴については何かが迫り履く余裕がなかった、または正常な判断ができない状態だったと考えられる。
薄着については、主に寒さで感覚が麻痺し暑いと感じ脱衣する行動(矛盾脱衣)で説明されるが、死後に他のメンバーが衣服を剥ぎ取ったと考える方が有力。実際、靴下が何枚もばらばらに履かれていたり、本人以外のものと思われる衣服を着ている遺体がある。
損傷の激しい遺体
後に発見された4人のうち、ドゥビニナは肋骨を骨折、眼球を消失、舌を欠損、ゾロタリョフは肋骨を骨折、眼球を消失、ブリニョーリは頭蓋骨を骨折しており、他の者と違い死因が低体温症ではない。なぜ大怪我を負ったのか。
眼球消失や舌の欠損は、発見されるまでに獣に荒らされたため、骨折は高所からの落下で岩に衝突したためとの考えがあるが、拷問等で意図的に行われた可能性もある。
放射線が検出された衣服
ドゥビニナ、コレヴァトフが着ていた衣服から高い放射線が検出された。なぜ調査隊が放射線測定を試み、実際に衣服から高い放射線が検出したのか。
消えたナイフ
木を切るために使ったと思われるナイフの鞘だけが見つかった。ナイフはどこにいったのか。
ゾロタリョフのカメラ
ゾロタリョフの遺体が持っていたカメラは、ユーディンが存在を把握していなかった。フィルムは損傷により現像できなかったが、仲間に隠れて何を撮影していたのか。
事故の原因
獣害説
狼や熊、クズリ等に襲われたという説。 しかし、テントが荒らされた形跡や足跡がないと指摘される。その他、雪男襲撃説、原住民のマンシ族襲撃説もある。
雪崩説
雪崩により避難したという説。しかし、 事件後もテントは自立しており雪崩の痕跡もなく、そもそも雪崩が起きにくい傾斜角だと指摘される。
ミサイル爆発説
軍の核ミサイルが誤爆したという説。実際、現場付近でミサイル実験が行われており、事件当日にも夜空に光球が目撃されている。またその時できたクレーターを発見したという者もいる。その他、誤爆後の軍による口封じ説もある。
ヘアピン渦説
野営地の地形が特殊な風の渦(ヘアピン渦)を生み、発生した超低周波音による無意識な不快感と、轟音を伴う竜巻によりパニックを引き起こしたという説。
カタバ風説
野営地の地形が強力な滑降風(カタバ風)を生み、その強風から避難したという説。
スパイ説
メンバー数人がCIAとKGBの二重スパイで、放射性物質をCIAに受け渡す取引でCIAエージェントの写真を撮る任務中、口封じで殺されたという説。この説は、ゾロタリョフのカメラを説明する。
キノコ中毒説
幻覚作用を引き起こす毒キノコを食べ錯乱したという説。
UFO説
宇宙人に襲撃されたという説。本記事トップ画像はクリヴォニシェンコのカメラで最後に撮られた写真で、UFOを撮ったものとされる。
色彩調和論とは?わかりやすく5分で解説
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色彩調和論とは、色の組み合わせの理論のこと。
背景
紀元前6世紀、古代ギリシアの数学者ピタゴラスが、心地良い音の組み合わせ(調和)が単純な数比で表せることを発見した。彼は万物の根源を数だと考え、音の調和を神秘的なものと捉えた。
1704年、 イギリスの科学者ニュートンが著書光学で光のスペクトルを赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の7色に分けた。7色とした理由は、西洋音楽ドリア旋法の音階(レミファソラシドレ)の各音の間に色を対応させたためで、虹を7色で扱うきっかけとなった。
当時、色は光と闇で作られるとされていたが、彼は色が光のみで作られることをプリズム実験により証明した。また、彼は色を円環に配置した図(色相環)を発明した。本記事トップ画像も色相環の1種で、それぞれ反対側の色を補色と呼ぶ。
1810年、ドイツの詩人ゲーテが著書色彩論で、ニュートンの色に対する科学的なアプローチを批判し色を心理的に扱った。彼は、ある色を見続けた後にその補色が知覚される現象(補色残像)を取り上げ、補色同士は引かれ合うと説いた。
但し、補色等の関係は色の表現方法によって異なる。RYBでの赤の補色は緑、RGBでの赤の補色はシアンとなる。
シュヴルールの色彩調和論
1839年、フランスの化学者シュヴルールが、著書色彩の同時対比の法則とこの法則に基づく配色についてで、色やトーン(明度と彩度を組み合わせたもの)の調和の関係を2つの法則にまとめた。
類似の調和
類似の調和とは、色やトーンが似ているもの同士は調和するという法則のこと。たとえばマスターカードのロゴは、赤と橙の円で類似の調和となる。色の類似をドミナントカラー、トーンの類似をドミナントトーンという。
対比の調和
対比の調和とは、色やトーンが反対なもの同士は調和するという法則のこと。たとえば
バングラデシュの国旗は緑と赤で対比の調和となる。
ルードの色彩調和論
1879年、アメリカの自然科学者ルードが、著書現代色彩学で自然界に見られる配色は調和すると唱えた(ナチュラルハーモニー)。自然界では、木の葉の緑は日向の部分が明るく黄みがかり、日陰の部分が暗く青みがかって見える。
たとえば三井住友銀行のロゴは、黄緑部が明るく緑部が暗いナチュラルハーモニーとなる
オストワルトの色彩調和論
1918年、ドイツの化学者オストワルトが調和は秩序に等しいと唱え、純色、白色、黒色の混合比を定め色を作り体系化した(オストワルトシステム)。彼はこのシステム上で、同じ混合比や規則的な位置関係の色同士は調和するとした。
ドアの色彩調和論
1923年、アメリカの芸術家ドアが、色を黄みがかった色(イエローアンダートーン)と青みがかった色(ブルーアンダートーン)のグループに分け、グループ内でまとめた配色は調和するとした。
ビレンの色彩調和論
アメリカの作家ビレンが、色を暖色(ウォームシェード)と寒色(クールシェード)のグループに分け、グループ内でまとめた配色は調和するとした。
ムーンとスペンサーの色彩調和論
1944年、アメリカの電気技師ムーンとイギリスの数学者スペンサー夫妻が3本の論文を発表した。彼らは色を同等・類似・対比の調和とそれ以外の不調和に分類、数値化し、バランスの良い面積比の計算法や調和具合(美度)の方程式を提案した。
不調和には、色の差があいまいな状態(不明瞭)や色の差が激しすぎる状態(グレア)等がある。反対に、はっきりした2色(ビコロール)や3色(トリコロール)等の関係は調和するとした。たとえばフランスの国旗は青、白、赤のトリコロールとなる。
イッテンの色彩調和論
1961年、スイスの芸術家イッテンが著書色彩の芸術で、色相環上で幾何学的な位置関係にある色同士は調和すると唱えた。色相環上を三角形で結んだ3色(トライアド)、四角形で結んだ4色(テトラード)等がこれにあたる。
たとえばルーマニアの国旗は青、黄、赤のトライアドとなる。
ジャッドの色彩調和論
1955年、アメリカの物理学者ジャッドが論文4つの色彩調和論で、先人の色彩調和論を4つの原理にまとめた。
秩序の原理
秩序の原理とは、規則性のある配色は調和するという原理のこと。オストワルトの理論や、時期は前後するがイッテンの理論(トライアド等)がこれにあたる。
類似性の原理
類似性の原理とは、似た性質の色同士は調和するという原理のこと。シュヴルールの理論(ドミナントカラー等)やドアの理論(イエローアンダートーンとブルーアンダートーン)、ビレンの理論(暖色と寒色)がこれにあたる。
明瞭性の原理
明瞭性の原理とは、はっきりした配色は調和するという原理のこと。ムーンとスペンサーの理論(トリコロール等)がこれにあたる。
なじみの原理
なじみの原理とは、見慣れた配色は調和するという原理のこと。ルードの理論(ナチュラルハーモニー)がこれにあたる。
人工知能(AI)とは?わかりやすく5分で解説
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人工知能(AI)とは、機械による知能のこと。
その利用は画像認識、機械翻訳、バーチャルアシスタント、ロボット掃除機等多岐にわたる。
歴史
第1次AIブーム(探索と推論の時代)
1956年、アメリカのダートマス大学に科学者が集まり、始めてAIという言葉が使われた(ダートマス会議)。これ以降、AI研究が盛んになった。彼らは、知能の本質が記号(文章や図等)の処理にあると考えた(物理記号システム仮説)。
たとえば、AIに単語や文法を覚えさせれば簡単に翻訳ができると考えた。しかし「精神は強く肉体は弱い」という聖書の一節を英語からロシア語に翻訳後、英語に再翻訳したら「ウォッカはおいしく肉は腐っている」となった。
これは、AIがspirit(精神or酒)やflesh(肉体or肉)を誤訳したため。人間の知識には、辞書のように言語化できる形式知と、自転車の乗り方等うまく言語化できない暗黙知がある。機械翻訳の精度を高めるためにはAIが暗黙知を理解する必要がある。
つまり、AI開発は記号の処理だけではうまくいかない。この時期、探索と推論の技術を中心に研究が進み、数学の定理の証明や迷路問題等で一定の成果を上げたが、単純な問題(トイプロブレム)にしか活用できなかった。
第2次AIブーム(知識表現の時代)
1970年から、エキスパートシステムが次々に開発された。エキスパートシステムとは、機械に特定の専門知識を組み込み、診断やアドバイスを行えるようにしたAIのこと。たとえば患者の情報を入力すると、病名や投薬量をある程度正しく診断できた。
このような実績もあり、自動音声応答装置等多くの企業でエキスパートシステムが導入された。しかし、人間による膨大なデータ入力や前述の暗黙知の問題により限界があった。
第3次AIブーム(機械学習の時代)
2000年代、インターネットの普及等により大量のデータ(ビッグデータ)がもたらされた。これを用いて、AIが自ら知識や法則を学習する技術(機械学習)が発達した。機械学習には、人間が正解を提示する教師あり学習と提示しない教師なし学習がある。
たとえば迷惑メール検知は、AIに普通のメールと迷惑メールのデータを与え、それぞれの特徴抽出を行わせる教師あり学習となる。一方通販サイトのおすすめ商品表示は、AIに購入者のカテゴリ分けと嗜好分析をさせる教師なし学習となる。
2006年、イギリスのコンピュータ科学者ヒントンが、脳を模倣したプログラム(ニューラルネットワーク)を用いた機械学習手法(ディープラーニング)を開発した。これにより、人間が教えていたデータの着目点や特徴量の指定をAI自らが行えるようになった。
たとえばブロック崩しゲームでは、AIはルールを教わらずに高得点を目指せという指示だけで攻略法を導き出した。近年のAI研究はディープラーニングを中心に急速に発展している。
機械の知性とは
1950年、イギリスの数学者チューリングが、その機械に知性があるか判定するテストを考案した(チューリングテスト)。これは人間と機械が一人の判定者に対しモニターを介して会話を行い、判定者が互いを区別できなかった時、機械に知性があるとするもの。
現在、このテストを完全に合格したAIは現れていない。
AIの未解決問題
AIの主な未解決問題は2つあり、ディープラーニングによる解決が期待されている。
フレーム問題
1969年、アメリカの計算機科学者マッカーシーとイギリスの計算機科学者ヘイズがフレーム問題を提示した。フレーム問題とは、AIが問題を解く時、起こりうるすべての事象を確認し無限に時間がかかってしまうという問題のこと。
たとえば、AIロボットに道路を渡るよう指示した時、自動車の有無、横断する距離、移動速度等の他に、横断中に道路の色が変わらないかとか、突然車道が陥没しないか等すべての可能性を確認し始め動かなくなる。
そこで、横断に関係のない事象は無視してよいと指示しても、何が関係のない事象か無限に確認する必要があるため、結局道路を渡れない。AIは特定の領域のみを扱う特化型人工知能(弱いAI)と、すべての領域を扱う汎用人工知能(強いAI)に分類される。
弱いAIはコンピュータ将棋のように領域を絞りフレーム問題を回避することで機能する。現在、ドラえもんのように何でもできる強いAIは発明されていない。
記号接地問題(シンボルグラウンディング問題)
1990年、ハンガリーの認知科学者ハーナッドが記号接地問題を提示した。記号接地問題とは、AIが認識した記号と実世界における意味を結びつけるのが難しいという問題のこと。たとえば人間は、アカミミガメを知らなくても耳の部分が赤い亀だと想像できる。
現在のAIでは、アカとミミとカメ(ガメ)を結びつけられず、アカミミガメを想像することはできない。
四色問題とは?わかりやすく5分で解説
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四色問題とは、四色で隣り合う領域同士が同色にならずに地図を塗り分けることができるかという問題のこと。
問題提起から120年以上たった1976年、コンピュータを用いてドイツの数学者ハーケンとアメリカの数学者アッペルによって証明された。四色定理ともいう。以降、便宜上領域を国と表記する。
背景
1852年、インドの数学者ド・モルガンが学生から、四色あれば隣国同士が同色にならずに地図を塗り分けることができる理由を聞かれた。この四色問題を初めて聞いた彼は、答えを求めてイギリスの数学者ハミルトンに手紙を書いた。
これに対しハミルトンは大きな関心を示さなかったが、四色問題に魅了されたド・モルガンはその後も交友のある学者へ手紙を送り続けた。
四色問題のルール
四色問題には2つのルールがある。まず、互いが1点で接する場合は色を変える必要はない。たとえば、市松模様のように斜め方向が同色でもよい。次に、飛地の色を合わせる必要はない。たとえば、アメリカ本土とアラスカは別の色でもよい。
本格的な研究の開始
1878年、イギリスの数学者ケイリーが学会で四色問題に触れてから、本格的に研究が進むようになった。彼は、四色問題を解くには単純な三枝地図のみを扱えばよいことを示した。三枝地図とは、すべての交点が3つの領域で共有されている地図のこと。
たとえばピザを3等分した状態がこれにあたり、真ん中の交点が3つのピザで共有されている。この時、ピザの外周にも交点が3箇所できるが、それぞれ2つのピザと外の領域という3つの領域で交点が共有される。
オイラーの公式
18世紀、スイスの数学者オイラーが多面体の公式を発見した(オイラーの公式)。オイラーの公式とは、多面体において(面の数)-(辺の数)+(頂点の数)=2が成り立つというもの。たとえば立方体を公式に当てはめると、6-12+8=2となり成り立つことが分かる。
オイラーの公式は平面(地図)でも成り立ち、その際は(国の数)-(境界線の数)+(交点の数)=2となる。この公式からいかなる地図でも2つか、3つか、4つか、5つの隣国を持つ国を最低1つは含むことが導かれる。
五色問題の証明
1879年、イギリスのアマチュア数学者ケンプがアメリカ数学ジャーナル誌に四色問題の証明を発表した。この証明には彼が考案したケンプ鎖の論証が用いられた。ケンプ鎖とは2色が交互に並ぶ配置のことで、一定の条件を満たせば互いの色を入れ替えられる。
たとえば、本記事トップ画像にある福岡→大分→宮崎→鹿児島は青→赤→青→赤のケンプ鎖だが、赤→青→赤→青に入れ替えても支障はない。彼はこの手続きによって、四色問題の証明を試みたが1890年、イギリスの数学講師ヘイウッドが証明の不備を指摘した。
ヘイウッドはケンプの証明を正せなかったが、代わりにケンプ鎖の論証で五色問題を証明した。
不可避集合と可約配置
四色問題が正しくない場合、五色以上の地図が存在することになる。この時、五色以上の地図のうち国の数が最小のものを最小反例という。20世紀、オイラーの公式、ケンプ鎖、最小反例等に不可避集合と可約配置という概念が加わり、証明の方針が固まった。
不可避集合とは、最低1つは地図に含む必要のある国々のパターンの集まりこと。可約配置とは、必ず四色で塗り分けられる国々のパターンのこと。もし、すべての地図に可約配置が含まれるならば、最小反例にも可約配置が含まれることになる。
そこで最小反例から可約配置を除くと、国数が減り最小反例ではなくなるため四色で塗り分けられる。その地図に可約配置を戻しても、可約配置は四色で塗り分けられる。つまり、すべてが可約配置の不可避集合を見つければ、四色問題が証明される。
コンピュータの導入
1967年、ドイツの数学者ハーケンが数学の難問ポアンカレ予想の証明を断念し、四色問題の研究に着手した。1969年、ドイツの数学者ヘーシュが不可避集合を探すための放電法を考案し、これをハーケンが改良し取り入れた。
不可避集合の探索には膨大な計算が必要だったため、このころから研究にコンピュータが活用されていった。1972年、アメリカの数学者でプログラミングに精通しているアッペルが、ハーケンの研究に加わった。
四色問題の証明
1976年、ハーケンとアッペルが1,936個からなる不可避集合を調べ、すべて可約配置だと確認し四色問題を証明をした。しかし従来の証明と違い、そのほとんどがコンピュータで行われていたため、人間が確認できない証明を証明と呼べるのか批判もあがった。
四色問題の応用例
四色問題は地図の配色だけでなく、携帯電話通信システムにおいて隣り合う基地局同士の混信を防ぐための周波数配分に応用されている。
国鉄三大ミステリーとは?わかりやすく5分で解説
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国鉄三大ミステリーとは、連合国軍占領下の日本で起きた国鉄に関係する3つの不可解な事件のこと。
背景
1945年、第二次世界大戦後の日本は連合国軍の占領下に置かれた。連合国軍最高司令部(GHQ)は日本の民主化を推進し、その中で共産党が合法化された。これにより共産党が勢力を拡大し、公務員や民間企業に党員が増え労働運動が活発化した。
1949年、中国大陸で中国共産党が優性となると、アジアの共産化を恐れたGHQは対日占領政策を民主化から共産党弾圧へ転換した(逆コース)。6月1日、行政整理のために定員法が施行され、共産党員を含む官公職員28万5千人が解雇を迫られた。
これに対し9万5千人が解雇対象となった国鉄では、労働組合がストライキを起こし反発した。その後7、8月に国鉄で3つの事件が発生した。これらは解雇に反対した者が起こしたとされたが、GHQ等が世論を味方につけるために仕組んだという説もある。
下山事件
1949年7月5日、国鉄総裁の下山定則が失踪し翌6日未明に常磐線の線路上で轢死体となって発見された。下山の行動や遺体の状態等に不可解な点が多かったが、翌年事実上捜査が打ち切られた。1964年、公訴時効が成立した。
失踪前の行動
7月5日朝、下山はいつもどおり総裁専用車で自宅を出ると、 三越に行くよう運転手に言った。途中白木屋に目的地を変更したが、到着した際にまだ開店前だったため再び三越に向かった。しかし三越も開店前だったため国鉄本社に向かうことになった。
その途中で神田駅に目的地を変更したが、到着しても車からは降りず再び国鉄本社に向かった。すると今度は三菱銀行に行くよう指示し、そこでお金を引き出した。次に開店した三越に向かい、運転手に5分ほどで戻ると言いそのまま失踪した。
失踪後の目撃証言
三越店内では4人連れで目撃されている。その後は浅草駅と五反野駅で目撃談があり、五反野駅では駅員に近くの宿をたずね、駅員は末広旅館を紹介した。この時男は切符を買っていたが、下山には優待パスがあり切符は不要なため疑問が残る。
末広旅館には14時から17時半まで滞在した。その間男はタバコを吸っていないが、下山はヘビースモーカーのためここでも疑問が残る。その後18時から23時まで東武線と常磐線の交差部付近で目撃談がある。これら不自然な行動から男は替え玉という説がある。
自殺か他殺か
検視の結果、下山が生きたまま轢かれた(生体轢断)か、死後に轢かれた(死後轢断)か法医学者で意見が分かれた。そのため捜査一課は自殺、捜査二課は他殺を主張した。自殺の根拠としては、下山が大量解雇に悩み神経衰弱症と診断されていた点等がある。
他殺の根拠としては、前述の替え玉疑惑、轢断による出血が少ない点、いつも靴紐を固く結ぶ下山の靴が脱げて破れているのに足が無傷な点、遺留品からメガネとタバコが見つからない点、国鉄マンが鉄道で自殺するはずないという意見等がある。
他殺説には、出血が少ないのは当日の雨のため、死後轢断で見られる反応は生体轢断でも起こりうる等の反論がある。また、暴行のうえ死後轢断と鑑定した法医学者の古畑種基は、関わった複数の事件で冤罪が発覚しその信憑性に疑問が持たれている。
三鷹事件
1949年7月15日午後8時23分、東京三鷹電車区から無人列車が暴走し脱線転覆、多数の死傷者を出した。その後元運転士の竹内景助と共産党員10名が逮捕され、裁判で竹内のみ有罪(死刑)となった。しかしいくつか疑問点があり冤罪が疑われている。
犯行内容
判決では、竹内はまっすぐ先頭車両に向かい、拾った針金で運転台のハンドルを解錠し、バネで戻るハンドルを片手で押さえながら、もう一方の手で紙紐を使ってハンドルを固定、先頭車両のパンタグラフを上げ発車と共に飛び降りたとしている。
疑問点
疑問点として、針金での解錠が未検証な点、竹内が知らないはずの特殊な結び方(コイル巻き)でハンドルが固定されていた点、コイル巻きが片手で困難な点、2両目のパンタグラフが上がっていた証言、最後尾車両のブレーキが緩められていた点等がある。
松川事件
1949年8月17日午前2時9分、福島県東北本線のレールが外され走行中の列車が脱線転覆、多数の死傷者を出した。その後国鉄と東芝の労働組合員等20名が逮捕されたが、裁判で全員無罪となった。1964年、公訴時効が成立した。
犯行内容
犯人は深夜にレールの固定具を外し、長さ25m重さ約1tのレール1本を外した。裁判では検察による証拠品の捏造(提出された自在スパナは固定具の取り外しに適さずかつ使用跡がなかった)や、アリバイ証拠の隠蔽(被告の無実の証拠を隠した)が発覚した。
不審な点
不審な点として、事故前に現場を通過予定だった貨物列車が突然運休している点、犯行の数ヶ月後に目撃者が不審死している点等がある。
責任阻却事由とは?わかりやすく5分で解説
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責任阻却事由とは、処罰の必要性が否定される心神喪失等の事情のこと。
犯罪の成立要件
日本の刑法では、犯罪の成否を3段階に分けて検討する。すなわち、構成要件に該当し、違法性阻却事由に該当せず、責任阻却事由に該当しない場合のみ犯罪が成立する。
構成要件
構成要件とは、条文の解釈から導かれる犯罪の型のこと。たとえば殺人罪の条文は「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。」だが、この場合の構成要件は「人を殺す行為」となる。つまり、人を殺すと殺人罪の構成要件に該当する。
違法性阻却事由
違法性阻却事由とは、違法性がないとして処罰対象とならない事情のこと。正当防衛や緊急避難等が違法性阻却事由に該当する。
責任阻却事由
責任阻却事由とは、責任能力がないとして処罰対象とならない事情のこと。心神喪失や14歳未満の子供(刑事未成年者)等が責任阻却事由に該当する。
責任能力とは
日本において責任能力とは、行為の善悪を判断する能力(弁識能力)または、自分の行動をコントロールする能力(制御能力)がない状態を指す。原則、行為した時点で責任能力がない者(責任無能力者)は罪に問われない(行為と責任の同時存在の原則)。
たとえば、無理やり酒を飲まされ責任無能力者となり他人を殴っても、暴行罪には問われない。但し、故意に酒の力を借り責任無能力者となり他人を殴った場合は、飲酒時を行為した時点と判断し暴行罪に問われるのが通例(原因において自由な行為の法理)。
しかし、神経科学の発展により前頭葉に損傷がある場合、善悪の判断はできても行動を制御できない人がいることが分かってきている。これは自由意志の問題にもつながる。
責任阻却事由の種類
責任阻却事由には、心神喪失、刑事未成年、期待可能性のない行為がある。
心神喪失(刑法39条)
心神喪失とは、精神の障害によって責任能力がない状態のこと。アルコールや薬物摂取による病的な酩酊や精神病がこれにあたる。2004年、統合失調症の男が自動車で次々に人をはね殺傷した事件では、男は心神喪失で無罪となった(茨木市連続ひき逃げ事件)。
2014年、精神科に通院歴のある男が都内の図書館等でアンネフランク関連の書籍を次々に破った事件では、男は心神喪失で無罪となった(アンネの日記破損事件)。
刑事未成年(刑法41条)
刑事未成年とは、刑法上責任能力がないと判断される14歳未満の子供のこと。2002年、男と内縁の妻が知人や家族を監禁、虐待のうえ家族同士で殺し合いをさせた事件では、13歳の少女が殺人等に関与したが、責任は問われなかった(北九州監禁殺人事件)。
期待可能性のない行為
期待可能性のない行為とは違法せざるを得ない行為のこと。たとえばAを殴らなければお前を殺すと脅され、やむを得ずAを殴る行為がこれにあたる。但し、期待可能性を欠くとして日本の最高裁で無罪となった判例はない。
1933年、雇い主が船長の警告を無視し定員超過で船が転覆した事件では、雇い主に抵抗すると職を失うおそれがあった(期待可能性がなかった)として船長の刑が減軽された(第五柏島丸事件)。
海外の判例
心神喪失
1843年、イギリスで首相暗殺を試みた男が誤って秘書を殺した事件では、男は心神喪失で無罪となった。以降、この時の心神喪失の評価基準(マクノートンルール)が世界に広まった。これは、行為時にその行為の性質や善悪の判断ができたか評価するもの。
つまり、弁識能力のみに注目し制御能力は考えない。
刑事未成年
2000年、アメリカで6歳の少年が嫌いな同級生の少女を射殺した事件では、少年は責任能力がないとして無罪となった。この時は、銃の所有者の伯父が責任を問われ2年5ヶ月刑務所に入った。
期待可能性のない行為
1897年、ドイツで雇い主が御者の要望を無視し悪い癖のある馬を馬車に使い続け、ある日暴れた馬が通行人に怪我をさせた事件では、雇い主に抵抗すると職を失うおそれがあった(期待可能性がなかった)として御者は無罪となった(暴れ馬事件)。
自由意志とは?わかりやすく5分で解説
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自由意志とは、他からの影響を受けないで自由に行為できる意志のこと。
背景
古くから人間は自由意志を持つと考えられてきた。しかし科学の発展は自由意志の存在を否定する方向に働いた。18~19世紀、様々な現象がニュートン力学で説明されると、すべての状態を把握すれば未来は確定するという考えが生まれた(ラプラスの悪魔)。
20世紀初頭、行動が遺伝と環境で決まると考える行動主義心理学が確立した。いずれの考えでも、自由意志は錯覚と考えられた。
リベットの実験
1985年、アメリカの生理学者リベットが自由意志に関する実験を報告した。身体を動かす時、それに先立ち脳波に変化(準備電位)が生じる。彼は被験者に好きなタイミングで腕を動かすよう指示しその時間を後に報告させ、同時に脳波と腕の筋電位を計測した。
その結果、最初に準備電位が生じ、その350ミリ秒後に腕を動かそうと意図し、その200ミリ秒後に腕が動くことを発見した。つまり、意識的な意思決定前に脳が活動を開始していた。これを受け自由意志は錯覚という議論が起こった。
リベットは被験者が腕を動かそうとしてやめた時、生じていた準備電位が喪失することを確認した。このことから彼は、準備電位が生じた後の拒否権こそが自由意志だと主張した。
立場による違い
自由意志のとらえ方について、立場による違いを以下に示す。
強い決定論
強い決定論とは、すべての出来事は決まっていて自由意志は存在しないという立場のこと。すべては原因と結果の因果法則によって決められているという考え(因果的決定論)や、すべては神によって決められているという考え(神学的決定論,予定説)等がある。
またミクロの世界を扱う量子論では、粒子の運動が確率的にしか決まらないとする(確率解釈)。つまり未来は決定されない。しかし、ランダムだったとしても一定の法則があることには変わらず、自由意志が存在する余地はないと考える(確率論的決定論)。
自由意志論(リバタリアニズム)
自由意志論とは、自由意志は存在しすべての出来事は決まっていないという立場のこと。自由意志論者は、主に自由の本質を自由に選択できること(選択可能性)と考える。たとえば喉が渇き冷蔵庫から複数の飲み物を選択できる時、選択可能性があるという。
両立論(弱い決定論)
両立論とは、決定論と自由意志が両立するという立場のこと。両立論者は自由の本質を望んだ行為が行えること(行為者性)と考える。たとえば喉が渇き自販機で好きなコーラを買える時、行為者性があるという。
もし決定論が正しいとすると、コーラを買うことは決まっていたためファンタを買うといった選択可能性はない。しかし行為者性はあるため、自由意志は決定論と両立する。
道徳的責任
一般に、自由意志に基づく行為には責任が伴うと考えられている。責任は犯罪の成否に関わる。たとえば殺人を行ったとしても、心身喪失者の場合には責任を問えず犯罪が成立しない(責任阻却事由)。強い決定論は、人間の行為に責任を持たせることが難しい。
なぜなら強い決定論では、運命が決まっていて自由意志による選択可能性も行為可能性もないため。これは、洗脳や脅迫により本人に自由がない(責任を問えない)状態に近い。一方、自由意志論や両立論は行為者に責任を持たせることができる。
心身問題
両立論のように、心的な意志と物理的な行為を結びつけて扱うのは難しい(心身問題)。なぜなら、科学が扱う物理的な世界に非物理的な心(意志)が存在することになるため。そこで、心の状態は物理的な脳の状態で表せるという考えが生まれた(心脳同一説)。
心脳同一説により心が脳に置き換えられるなら、なぜ心が存在するのかを説明する必要がある。人間は無意識に熱いものから手を離したり(脊髄反射)、呼吸することができるし、機械は心がなくても正確に仕事が行なえる。つまり、心は不必要に思われる。
もし、人間が進化の過程でたまたま心を獲得したとすると、現代の進化論の根幹をなす自然選択説に反する。自然選択説では必要な機能が遺伝し、不必要な機能が淘汰されると考えるため。心身問題は、現代でも哲学上の重要な問題として扱われている。
脳神経研究
2008年、イギリスの脳神経学者ヘインズが、被験者に左右どちらかのボタンを押させ、その時脳のどこが活発に活動しているかを測定した。その結果、意識的な意思決定前に前頭皮質(BA10)が活動し、そのパターンから7秒前に左右どちらを選ぶか予測できた。
2009年、フランスの認知神経科学者シリグが、被験者の脳(頭頂葉)に電気刺激を与えたところ、被験者に身体の特定の部位を動かしたいという意志が生まれた。現在のところ脳内の複雑な関係性が意志を生むとし、どこかに中枢があるとは考えられていない。