カーゴカルトとは?わかりやすく5分で解説
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カーゴカルトとは、南太平洋のメラネシアに存在する神や先祖の霊が飛行機や船等を用いて様々な工業製品(貨物,カーゴ)をもたらすという信仰のこと。
背景
17~19世紀にかけて、欧米諸国が次々に太平洋の島々を植民地化し、太平洋の島々にキリスト教等の様々な西洋文化が流入した。こうした異文化の接触によって、異文化を排除しようとする運動(土着主義運動)や、文化の変化(アカルチュレーション)が起きた。
カーゴカルトの特徴
カーゴカルトの特徴に千年王国思想と西洋文化の模倣がある。両者の一般的な概念を以下に示す。しかし、カーゴカルトは1つの起源を持つわけではなく同時多発的に発生しているため、それぞれの思想は若干異なる。
千年王国思想
新約聖書ヨハネの黙示録によれば、最後の審判の前に世界が災禍に見舞われ、キリストが再臨し1000年の間王国を治めるとされる。この間敬虔な信者は蘇り悪魔は追放され、信者は至福の時を過ごすと信じられている。
西洋文化の模倣
彼らは、神が創った工業製品を白人が秘密の儀式(西洋文化)で不当に占有していると考えるため、西洋文化を模倣する。模倣には訓練や行進、ティーパーティー、洋服の着用、わらで作った飛行機や擬似的な滑走路、木で作った銃やヘッドホン等がある。
主なカーゴカルト
19世紀後半から20世紀にかけて、メラネシアの島々で様々なカーゴカルトが生まれた。特に第二次世界大戦後、軍隊が撤退し貨物が残されると、先住民は豊かになり信仰が強化された。主なカーゴカルトを以下に示す。
マンスレン・コレリ運動
1857年、オランダ領ニューギニアでマンスレン神話に基づくカーゴカルトが生まれた。マンスレン神話とは、メラネシアの島々や人々を創造した英雄マンスレンが、一時王国を離れるが、やがて息子コナーと共に帰還し黄金時代が到来するという伝説のこと。
黄金時代ではすべての幸福が訪れ、働く必要もなくなると信じられた。また彼らは、自らを聖書の登場人物の子孫だと信じ、村を聖書にある村名に改名した。こうした中で、コナーを自称する者が次々に現れ、工場破壊等の白人に対する反発が40年以上続いた。
トゥカ運動
1885年、フィジーでドゥグモイが先祖の帰還と白人入植者の終焉を予言した。彼は、信者と共に白人の象徴シロブタを屠殺する目的で飼ったり、軍事演習を真似たりと植民地当局を挑発した。
ヴァイララ狂信
1919年、パプアニューギニアのヴァイララでカーゴカルトが生まれた。彼らは先祖の霊が白人の姿で貨物を持って船で帰還するというお告げを聞き、洋服を着込み静かにテーブルに着く者や、興奮して歌い踊りトランス状態で失神する者がでた。
このトランス状態のことをhead-he-go-roundという。このような運動は数ヶ月に渡り続き、その間労働は放棄され農地は荒廃した。また彼らは、伝統的な儀式や宝飾品を無用なものとして廃棄した。この運動は10年以上にわたり何度も起きた。
マンブ運動
1937年、パプアニューギニアのマダン州でマンブが、マナム島の火山に住む先祖の霊が貨物をもたらすと予言した。彼は当局のための労働や納税は不要と喧伝し、信者と共に洋服を着て、缶詰や斧、石鹸等工業製品を持ち歩き教会を立てた。
パリアウ運動
1945年、パプアニューギニアのマヌス州でパリアウが、各地を回って西洋文化に倣った資金調達等の経済政策を打ち出し、地域の統一を図った。その際、伝統の破棄やキリスト教を利用した彼の主張が支持者によって曲解され、カーゴカルトが生まれた。
この時の曲解された彼の主張をThe Noiseという。
ヤリ運動
1946年、パプアニューギニアのマダン州でヤリが先祖の帰還や貨物の到来、白人からの開放を予言すると同時に、特定の女性たち(フラワーガールズ)と儀式的な性交を行い花で装飾したビンに精液を集め、先祖の霊がビンの底にお金を作り出すと説いた。
ジョンフラム信仰
1940年代、バヌアツのタンナ島で白人に姿を変えた先祖の帰還が予言された。その後第二次世界大戦によりアメリカ軍の拠点となった島は、貨物で満たされ豊かになり信仰が強化された。ジョンフラムとは、貨物をもたらした米兵の神格化された個人を指す。
現在でも信仰は続いている。彼らは上半身裸に西洋のズボン、胸にUSAのペイント、木で作った銃を持ち行進を行い、ジョンフラムの再臨を待ち続けている。
フィリップ王配信仰
1950年代頃、バヌアツのタンナ島で、イギリスのフィリップ殿下を信仰するカーゴカルトが生まれた。この地域では青白い肌を持つ山の神の子の帰還伝説がある。彼らは植民地教育によってエリザベス2世に敬意を抱き、その夫が神の子に違いないと解釈した。
イギリスは、豚を撲殺するために使用する武器(ナルナル)を持ったフィリップ殿下の写真等を送った。現在でも信仰は続いている。
行動主義心理学とは?わかりやすく5分で解説
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行動主義心理学とは、アメリカの心理学者ワトソンが創始した、心理学を行動から研究する学派のこと。
背景
19世紀後半から20世紀初頭、イギリスの心理学者ティチナーが構成主義心理学を確立した。構成主義心理学とは、心(意識)を単純な構成要素から解明する立場のこと。これに対し20世紀前半、アメリカの心理学者ジェームズらが機能主義心理学を確立した。
機能主義心理学とは、進化論を背景に心を記憶や注意といった機能から解明する立場のこと。構成主義心理学は心の構造に着目するのに対し、機能主義心理学は心の存在理由に着目する。両者の研究にはしばしば被験者の報告を必要とした。
この報告は、主観的な性質を持つため科学的分析に向かず、また言語を扱えない幼児やある種の障がい者、動物等に適用できなかった。
動物心理学の勃興
19世紀後半、動物の行動を研究する動物心理学が勃興し、以下に示す成果をあげた。
猫の問題箱
1898年、アメリカの心理学者ソーンダイクが試行錯誤学習の実験を行った。試行錯誤学習とは、試行の繰り返しで問題解決時間が減少する現象のこと。彼は紐を引くと扉が開く箱に猫を入れ、箱外の餌を取る時間が試行錯誤で減少することを確認した。
本記事トップ画像は試行錯誤学習の結果を表す。
パブロフの犬
1903年、ロシアの生理学者パブロフが条件反射を発見した。条件反射とは、特定の反応を起こす刺激と同時に無関係な刺激を与え続けると、やがて無関係な刺激で特定の反応が起こる現象のこと。彼は、犬に餌とブザー音を与え続けブザー音で唾液を出させた。
行動主義心理学の誕生
1912年、アメリカの心理学者ワトソンがパブロフの実験に影響を受け、行動主義心理学を創始した。行動主義心理学とは心を行動から解明する立場のこと。彼は、特定の刺激(S)には特定の反応(R)が結びつくと考えた(S-R理論)。
1920年、ワトソンが幼児アルバートに対し恐怖条件づけ実験を行った。これは、幼児がネズミに触ろうとした時に幼児が怖がるほど大きい音を鳴らすというもの。実験により、幼児はネズミを見ただけで怖がり泣き出すようになった。
ワトソンは、行動が先天的でなく後天的な影響を強く受けると考えた(環境主義)。しかし、内的要因(心の影響等)を無視し行動のすべてを刺激と反応の因果関係で説明するS-R理論は、同一の刺激から異なる反応が起こる現象を説明できなかった。
たとえば同じ料理を見た時、空腹時は快く満腹時は不快に感じることがある。
新行動主義心理学の登場
1927年、アメリカの物理学者ブリッジマンが、著書現代物理学の論理で操作主義を唱えた。操作主義とは、曖昧な概念の定義を具体的な観測方法によって与えるという考えのこと。たとえば、安静は脳波におけるα波の割合が高い状態と定義できる(操作的定義)。
これにより、内的要因が科学的な観測を用いて客観的に扱えるようになった。この考えをもとに1930年代、アメリカの心理学者トールマン、ハル、スキナーらによって新行動主義心理学が誕生した。
トールマンとハルは、刺激(S)と反応(R)の結びつきに内的要因(O)が影響を与えると考えた(S-O-R理論)。この発想は1960年代以降に起きた感覚や知覚、認知を扱う学問、認知心理学の成立につながった。
スキナーの徹底的行動主義
1938年、スキナーが著書生体の行動で条件反射を古典的条件づけ(レスポンデント条件づけ)、試行錯誤学習をオペラント条件づけ(道具的条件づけ)として再定式化した。彼は行動が2種類の条件づけで形成・制御されるとした。
これは、行動の原因が環境によるという考えに基づく(徹底的行動主義)。徹底的行動主義では、内的要因をS-O-R理論のように分離せず行動の一部として扱う。
古典的条件づけ
唾液やまばたき等の生得的な反射と結びつく条件反射によって受動的な行動を学習すること。 たとえば、催吐剤を飲ませタバコの臭いをかがせ続けると、タバコの臭いで吐き気を催し禁煙できるようになる(嫌悪療法)。
オペラント条件づけ
餌や電気ショック等の報酬や罰によって能動的な行動を学習すること。試行錯誤学習との違いは、猫を箱に戻すといった実験者の介入を必要とせず連続で行えること。オペラント条件づけの研究に用いる装置としてスキナー箱がある。
スキナー箱はレバーを押すと餌(報酬)が得られる。この箱に空腹のネズミを入れると、初めは仕掛けに気づかないがそのうち偶然レバーに触れ餌を得る。これが繰り返され、最終的にネズミは能動的にレバーを引くようになる。
この時、レバーを引く頻度を高めるための餌を好子(低める場合は嫌子)、頻度の高まりを強化(低まりの場合は弱化)という。つまり、ネズミの行動は満足感等の内的要因ではなく環境による強化/弱化で説明できる。この行動の仕組みを強化の随伴性という。
総合説とは?わかりやすく5分で解説
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総合説とは、自然選択説をベースに遺伝学や隔離、突然変異等、様々な考えを統合した現代の進化論のこと。
背景
1859年、イギリスの博物学者ダーウィンが、著書種の起源で自然選択説を唱えた。自然選択説とは、生存競争によって生存に有利な変異の保存と不利な変異の排除が繰り返され、生物が徐々に進化(漸進的進化)するという説。
しかし自然選択説に基づく彼の理論(ダーウィニズム)は、種が変わる大きな変化(種分化)や遺伝、変異の仕組みを十分に説明できていなかった。一般に、種とは交配によって繁殖できる集団をいう。
種分化の仕組み
1868年、ドイツの博物学者ワグナーが隔離説を唱えた。隔離説とは、集団が分断され交流しなくなることで、進化が進み種分化が起きるという説で、今日この隔離が種分化の主な要因と考えられている。
遺伝学の誕生
1868年、ダーウィンは著書飼養動植物の変異でパンゲン説を唱えた。パンゲン説とは、後天的に獲得した形質(外観や経験、能力等)が子に遺伝するという説で、彼はパンゲン説で遺伝の仕組みを説明した。
1883年、ドイツの動物学者ヴァイスマンが生殖質連続説を唱えた。生殖質連続説とは、生殖細胞の持つ情報のみが遺伝するという説で、彼は進化が自然選択説のみで説明でき獲得形質は遺伝しないと主張した(ネオダーウィニズム)。
1900年、オランダの植物学者ドフリースらによって、チェコの司祭メンデルが発見した遺伝の仕組み(メンデルの法則)が再発見された。当初、不連続な進化に見えるメンデルの法則と、漸進的進化の自然選択説は相容れないものと思われていた。
遺伝の仕組み
一般的な生物は遺伝子をペアで持つ。これは両親の遺伝子を1つずつ受け取るためで、それぞれを対立遺伝子と呼ぶ。たとえばヒトの血液型はA、B、Oの3つの対立遺伝子によってAAとAOはA型、BBとBOはB型、ABはAB型、OOはO型に分類される。
また対立遺伝子の組み合わせ(AA等)を遺伝子型、発現する形質(A型等)を表現型、異なる遺伝子型(AO等)をヘテロ接合体、同じ遺伝子型(AA等)をホモ接合体という。メンデルは遺伝研究の先駆者で、メンデルの法則として以下3つの法則を示した。
優性の法則
ヘテロ接合体において一方の形質が発現する法則のこと。たとえば血液型では、AとOのヘテロ接合体(AO)は必ずA型になる。この時のAを優性遺伝子、Oを劣性遺伝子という。しかしAとBには優劣がなく例外的にAB型となる。この関係を共優性という。
分離の法則
対立遺伝子が融合せず分離して遺伝する法則のこと。たとえば血液型では、AOとBOの遺伝子型を持つ両親からは、親の世代では発現しなかったOOの子が1/4の確率で生まれる。このように、劣性遺伝子であっても融合されることはなく分離して伝わる。
独立の法則
2つ以上の異なる形質を発現する遺伝子同士が、互いに独立し影響を受けない法則のこと。たとえば、人種等の影響を無視すればA型の人に金髪が多いということはない。
変異の仕組み
1901年、ド・フリースが突然に表現型の異なる変異が起こること(突然変異)を発見し、突然変異説を唱えた。突然変異説とは、突然変異によって急激に種分化するほど大きな変化が起こるという説。このような突然大きく進化するという考えを跳躍説という。
アメリカの遺伝学者モーガンは、キイロショウジョウバエを用いて突然変異を研究した。その結果、種分化を引き起こすことは極めて少ないが、突然変異が自然選択説の変異が起こる仕組みを説明できると考えられるようになった。
集団遺伝学の誕生
1930年代、イギリスの遺伝学者フィッシャーらによって集団遺伝学が誕生した。集団遺伝学とは、集団内での遺伝を確率や統計等数学の理論を用いて明らかにする学問のこと。この学問により、対立関係にあったメンデルの遺伝学と自然選択説が統合された。
総合説の成立
集団遺伝学の発展に伴い初期の総合説が成立した。初期の総合説とは、突然変異により生じた変異が自然選択により種内に広まり固定され、隔離により種分化が起こるという説。
その後の発展
1968年、日本の集団遺伝学者木村資生が中立進化説を唱えた。中立進化説とは、生存に有利でも不利でもない突然変異の蓄積が進化の原動力になるという説。この理論の特徴は、突然変異が自然選択ではなく偶然に集団内に広まり固定されるという点にある。
このことから、中立説は自然選択説の適者生存に対し幸運者生存といわれる。この偶然性のある遺伝子の割合(遺伝子頻度)の変動を遺伝的浮動という。遺伝的浮動は小集団ほど促進される。たとえば、アメリカ先住民の血液型にはO型が多い。
これは、アメリカ大陸に渡った集団が少数で遺伝的浮動が促進されたためと考えられる。今日の総合説は、遺伝的浮動や中立進化説も統合しさらなる発展を遂げている。
共観福音書問題とは?わかりやすく5分で解説
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共観福音書問題とは、新約聖書の3つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ)の内容に共通点が多く、それぞれどのように成立したのかという問題のこと。
現在に至るまで解決されていない問題。
背景
1~2世紀頃、キリスト教の聖典新約聖書が成立した。 新約聖書は27の書物からなり、特にイエスの生涯や教えを記したマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる4つの福音書が重視される。福音とは良い知らせという意味。
1776年、ドイツの聖書学者グリースバッハは内容に共通点の多いマタイ、マルコ、ルカの福音書の対照表(シノプシス)を発表した。これを機に3つの福音書は共観福音書と呼ばれ、起源や成立順の議論が進んだ。以下に代表的な仮説を示す。
マルコ優先
二資料説(Q資料&マルコ→マタイ&ルカ)
ドイツの神学者ヴァイスが主張した、イエスの語録集(Q資料)とマルコをもとにマタイとルカが書かれたという仮説。現在主流の考え。しかし、マルコの記述と一致せずマタイとルカで記述が一致する点(小一致問題)が不自然と指摘されている。
小一致問題の解決策として、マルコの福音書の原典に原マルコの福音書があり、マタイとルカは原マルコの福音書をもとに書かれたとする原マルコ説がある。しかし、Q資料と原マルコの福音書が見つかっていない点が指摘されている。
ファラー説(マルコ→マタイ→ルカ)
イギリスの神学者ファラーが主張した、マルコをもとにマタイが書かれ、マルコとマタイをもとにルカが書かれたという仮説。しかし、ルカがマタイよりも古い言い回しを用いている点が不自然と指摘されている。
三資料説(Q資料→マルコ→マタイ→ルカ)
ドイツの神学者ホルツマンが主張した、Q資料とマルコをもとにマタイが書かれ、Q資料とマルコとマタイをもとにルカが書かれたという仮説。Q資料をもとにマルコが書かれた可能性も含める。しかし、Q資料が見つかっていない点が指摘されている。
ウィルケ説(マルコ→ルカ→マタイ)
ドイツの神学者ウィルケが主張した、マルコをもとにルカが書かれ、マルコとルカをもとにマタイが書かれたという仮説。しかし、ルカがマルコの記述の一部をまるごと省略している点が不自然と指摘されている。
四資料説(M&Q資料&マルコ→マタイ、L&Q&マルコ→ルカ)
イギリスの聖書学者ストリーターが主張した、 マタイ独自の資料(M)とQ資料とマルコをもとにマタイが書かれ、ルカ独自の資料(L)とQ資料とマルコをもとにルカが書かれたという仮説。しかし、Q資料とMとLが見つかっていない点が指摘されている。
マタイ優先
アウグスティヌス説(マタイ→マルコ→ルカ)
アルジェリアの神学者アウグスティヌスが主張した、マタイをもとにマルコが書かれ、マタイとマルコをもとにルカが書かれたという仮説。最初期の考え。しかし、マルコがマタイの重要な記述を省略している点が不自然と指摘されている。
グリースバッハ説(マタイ→ルカ→マルコ)
ドイツの聖書学者グリースバッハが主張した、マタイをもとにルカが書かれ、マタイとルカをもとにマルコが書かれたという仮説。しかし、マタイとルカでイエスの誕生や復活の記述に違いがある点が不自然と指摘されている。
ルカ優先
エルサレム学派説(A→R→ルカ→マルコ→マタイ)
イスラエルの聖書学者リンジーが主張した、 ヘブライ語の原典からギリシア語に直訳した短編集(A)をもとにAの時系列を整えたRが書かれ、AとRをもとにルカが書かれ、Aとルカをもとにマルコが書かれ、Aとマルコをもとにマタイが書かれたという仮説。
しかし、ヘブライ語の原典とAとRが見つかっていない点が指摘されている。
独立
原福音書説(原典→マタイ&マルコ&ルカ)
ドイツの思想家レッシングや神学者アイヒホルンが主張した、1つの原典をもとにそれぞれが独自に書かれたという仮説。しかし、原典が見つかっていない点や、それぞれに独自の記述がある点、互いに矛盾する記述がある点が不自然と指摘されている。
断片説(メモ→マタイ&マルコ&ルカ)
ドイツの神学者シュライアマハーが主張した、イエスの弟子たちが残したメモ書きをもとにそれぞれが独自に書かれたという仮説。しかし、記述の順序まで一致する点が不自然と指摘されている。
伝承説(伝承→マタイ&マルコ&ルカ)
ドイツの神学者ヘルダーやギーセラーが主張した、口頭伝承をもとにそれぞれが独自に書かれたという仮説。しかし、記述に一字一句同じ箇所がある点が不自然と指摘されている。
マルチソース仮説(原典→改定A&Q→マタイ、P→改定A&改定B→マルコ、P→改定B&Q→ルカ)
イギリス国教会の司教マーシュが主張した、原典を改定した2つの文書(改定Aと改定B)をもとにマルコが書かれ、改定Aと改定BとQ資料をもとにマタイとルカが書かれたという仮説。しかし、原典が見つかっていない点が指摘されている。
バイオミメティクスとは?わかりやすく5分で解説
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バイオミメティクスとは、生物の持つ構造や機能を模倣し応用する技術のこと。生物模倣、バイオミミクリーともいう。
生物模倣の試みは古くから存在する。たとえば航空機発明以前の人類は、鳥を模倣し羽ばたいて飛ぼうとした。1990年頃から、電子顕微鏡とナノテクノロジーが発展し、生物の微細な構造の解明や再現が可能になった。主な事例を以下に示す。
動物
フナクイムシ
1800年代初頭、フランスの技術者ブルネルが、掘り進んだ穴が塞がらないためにフナクイムシが分泌液でトンネルの壁を固める習性を模倣し、軟弱地盤でもトンネルを掘り進めることのできる工法(シールド工法)を開発した。
イカ
1934年、アメリカの神経生理学者シュミットが、イカの神経信号の伝達の仕組みを模倣し、ノイズ除去に利用できる電子回路(シュミットトリガ)を開発した。また彼は、バイオミメティクスの概念を生み出した。
蚕
1935年、化学メーカーのデュポンが、蚕の繭糸を模倣し化学繊維(ナイロン)を開発した。1964年、化学メーカーの東レが、蚕の繭糸の断面形状を模倣しシルク光沢を持つ素材(シルック)を開発した。
カミキリムシ
1947年、アメリカの発明家コックスが、カミキリムシ幼虫が顎を左右に動かし切り株を掘り進める習性を模倣し、チェーンソーの刃(ソーチェーン)を発明した。
牛
1965年、繊維メーカーのクラレが、牛の革を模倣し人工皮革(クラリーノ)を開発した。
カタツムリ
1991年、建材メーカーのINAXが、カタツムリの殻表面にある微細構造を模倣し、外壁やシンク、トイレの汚れ付着を防ぐ建材(マイクロガード等)を開発した。
蝶
1984年、繊維メーカーのクラレが、モルフォチョウの翅の発色を模倣し、染色することなく構造で発色する繊維(構造発色繊維デフォール)を開発した。
フクロウ
1997年、鉄道会社のJR西日本が、フクロウの羽根の突起形状(セレーション、またはボルテックスジェネレーター)を模倣し、風切り音を減らす500系新幹線のパンタグラフを開発した。
カワセミ
1997年、鉄道会社のJR西日本が、カワセミのくちばしを模倣しトンネル騒音(トンネルドン)を減らす500系新幹線の先頭車両を開発した。2004年、スポーツメーカーのデサントが、カワセミの羽根を模倣し水の抵抗を減らす水着(エールブルー)を開発した。
クジラ
2000年代、機械メーカーのホエールパワーが、ザトウクジラの胸ビレ前縁のこぶを模倣し、高効率の風力発電機用タービンブレードを開発した。
サメ
2000年、スポーツメーカーのミズノと水着メーカーのSPEEDOが、サメの皮膚にある微細構造(サメ肌、リブレット)を模倣し、水の抵抗を減らす水着(Fastskin)を共同開発した。
マグロ
2007年、塗料メーカーの日本ペイントマリンが、マグロの皮膚表面にある粘膜を模倣し、水の抵抗を減らす船底塗料(LF-Sea)を開発した。
カジキマグロ
2008年、スポーツメーカーのミズノが、カジキマグロの皮膚表面にある粘膜を模倣し、水の抵抗を減らす水着(WATERGENE)を開発した。
蛾
2012年、化学メーカーの三菱レイヨンが、光を反射せず隠れるために蛾の眼の表面にある微細構造を模倣し、反射や映り込みを防ぐフィルム(モスマイト)を開発した。
ヤモリ
2012年、化学メーカーの日東電工が、壁に貼りつくためにヤモリの指にある微細な毛を模倣し、温度変化に強く粘着力が強く簡単にはがせるテープ(ヤモリテープ)を開発した。
蚊
2012年、医療機器メーカーのライトニックスが、蚊の針を模倣し痛みの感じにくい採血針(ピンニックスライト)を開発した。
ネコ
2013年、電機メーカーのシャープが、ネコの舌の突起を模倣しゴミの圧縮性能を向上した掃除機(EC-VX500)を開発した。
クモ
2013年、バイオベンチャー企業のスパイバーが、クモの糸を模倣し高い強度と伸縮性を持つ糸(QMONOS)を開発した。
植物
1991年、スイスの化学者グレッツェルが、植物の光合成の原理を模倣し、光のエネルギーを色素を使った反応によって電気に変える電池(色素増感太陽電池)を発明した。
ゴボウ
1941年、スイスの電気技師メストラルが、服についていたゴボウの種を顕微鏡で調べ、種の先がフック状になっていることを発見した。1951年、彼は面ファスナー(マジックテープ)の特許を出願した。
蓮
1977年、ドイツの植物学者バルトロットが、蓮の葉表面の微細構造と分泌物により水滴をはじき、葉表面のゴミを洗い流す自浄機能(ロータス効果)を発見した。1983年、繊維メーカーの帝人が、高い撥水性を持つ織物(マイクロフトレクタス)を開発した。
カエデ
2010年、航空機メーカーのロッキードマーティンが、カエデの種を模倣し羽根が一枚の小型ドローン(Samarai)を開発した。
0系新幹線とは?わかりやすく5分で解説
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0系新幹線とは、日本の国鉄が開発した世界初の高速鉄道の初代車両のこと。高速鉄道とは、200km/h以上で走行できる鉄道を指す。
背景
1937年、日中戦争の勃発により日本から大陸への輸送需要が増加したことで、東海道本線と山陽本線の輸送力が限界に近づいた。そこで1939年、輸送力拡大のために弾丸列車計画が始まった。
これは当時東京-大阪間が列車で8時間かかっていたものを、200km/hの列車で4時間30分で結ぶ計画だった。1940年、用地買収とトンネル工事が開始されたが、1943年太平洋戦争の戦況悪化のため計画は中断された。
戦後の動き
戦後日本では航空機産業が禁止され、多くの優秀な技術者が自動車産業や鉄道産業に流入した。このことで、航空機の軽くて強い機体構造(モノコック構造)の設計技術や、振動に関する理論が鉄道業界にもたらされた。
しかし当時は将来的に自動車と航空機の時代となり、鉄道が縮小する考え(鉄道斜陽論)が国鉄内部にもあった。また国鉄の予算は毎年国会で決めるため、弾丸列車計画のように突然中止されるリスクがあった。そのため国鉄は長期的な計画に消極的だった。
鉄道技術研究所の講演会
1957年、国鉄の研究機関の鉄道技術研究所が、創立50周年の記念講演会を東京-大阪間3時間への可能性というテーマで開催した。当日会場は満員の大盛況で、メディアも好意的に報道した。講演会の題目と主な内容を以下に示す。
所長挨拶
鉄道技術研究所所長の篠原武司が、高速安定性確保と距離短縮のため標準軌による新線を建設すれば、技術的には東京-大阪間3時間は可能と述べた。標準軌とは、レールの幅間隔(ゲージ)が1,435mmの線路のこと。日本では1,067mmの狭軌が主流となっている。
車両について
海軍出身の三木忠直が、空気抵抗の少ない流線型かつ低重心で軽量な車体、加減速の効率が高く線路への負担も少ない各車両が動力を持つ方式(動力分散方式)を提案した。動力分散方式の反対が、動力車が客車をけん引・推進する動力集中方式となる。
線路について
生え抜きの鉄道技術者の星野陽一が、線路の防振対策としてコンクリート製の軌道(スラブ軌道)を提案した。軌道とはレールや土台(道床)等のこと。軌道の振動はレールの支えにクッション性を持たせ、道床をコンクリート製で重くすることで改善されるとした。
乗り心地と安全について
海軍出身の松平精が、車体の振動を抑えるための継ぎ目のない長尺レールと、空気ばねを使用した台車を提案した。彼は乗り心地の悪化や脱線につながる、高速走行時に車両が左右にうねる現象(蛇行動)の原因を、レール由来でなく台車由来と突き止めた。
信号保安について
陸軍出身の河邊一が、車内に設けた進路の制限速度を示す信号機に従い、自動で制限速度以下に減速する自動列車制御装置(ATC)を提案した。ATCは、高速化により視認が困難になる地上信号機の代わりとなる。
新幹線計画の開始
標準軌新線に意欲的だった国鉄総裁十河信二は、計画実現のため政治家に働きかけた。1958年、運輸省が設置した日本国有鉄道幹線調査会が標準軌新線建設の答申を出し、新幹線建設計画が開始した。しかし、国会の承認を得やすいよう予算は低く設定された。
1959年、十河は大蔵大臣の佐藤栄作から世界銀行借款のアイデアを得た。これは、世界銀行を巻き込むことにより政府に事業完成の義務を生じさせ、追加予算を承認させる目的だった。1961年、世界銀行から8000万ドルの融資を受けた。
また建設については、弾丸列車計画時に取得した土地やトンネルを活用した。
新幹線の開発
新幹線の主な開発は、ほぼ講演会の提案のとおりに進められた。その他、運行システムに列車集中制御装置(CTC)が取りいれられた。CTCとはスムーズな運行と人件費削減を図るため、列車の運行情報を総合指令室で管理し運転手に指示を行うシステムのこと。
また当時日本の鉄道は、非常ブレーキをかけてから600m以内に停止しなければならない規則があった(600m条項)。そのためブレーキには、抵抗板の展開・パラシュートを用いた空力ブレーキや、水を流した線路に抵抗板を入れる水圧ブレーキ等が検討された。
しかしどれもうまくいかなかった。そのため立体交差により全ての踏切をなくし、線路脇に侵入防止の防護柵を設けることで、特例で600m条項の例外とした。さらに先頭車両の床下には、線路上の障害物をはじくための排障器(スカート)が設けられた。
新幹線開業と世界の反応
1963年、試験車両が当時の世界記録256km/hを記録し、翌1964年に東海道新幹線が開業した。1965年、東京-大阪間が目標の3時間10分で結ばれた。新幹線の成功は高速鉄道の可能性を示し、その後フランスのTGVやドイツのICE等、世界で高速鉄道が誕生した。
南極条約体制とは?わかりやすく5分で解説
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南極条約体制とは、南極条約を初めとする南極地域の国際的な取り決めのこと。
背景
19世紀初頭、南極付近でアザラシやクジラ猟が盛んに行われるようになった。1820年、人類が南極大陸を発見し、以降各国による南極の探検と領土権の主張が始まった。南極の一部を自国の領土と主張する国をクレイマントという。
クレイマントには、アルゼンチン、イギリス、オーストラリア、ノルウェー、フランス等がある。反対に自他国ともに南極の領土権を認めない国をノンクレイマントという。ノンクレイマントには、アメリカ、日本、ベルギー、南アフリカ、ロシア等がある。
領土権の主張は国際紛争に発展する恐れがあり、対策を講じる必要があった。一方1882年8月から1883年8月の間に、各国が協力し北極付近で様々な観測が行われた。この1年を第1回国際極年という。この活動により極地における国際協力の機運が高まった。
南極条約の採択
1959年、アメリカ、アルゼンチン、イギリス、オーストラリア、チリ、日本、ニュージーランド、ノルウェー、フランス、ベルギー、南アフリカ、ロシア(当時ソ連)の12ヶ国によって南極地域の利用ルールを定めた南極条約が採択、1961年に発行された。
南極条約の主な内容には、利用は平和目的に限定(第1条)、科学調査の自由(第2条)、領土権主張の凍結(第4条)、核爆発や放射性廃棄物の処分禁止(第5条)、定期的な会合の開催(第9条)がある。南極条約は、1966年に採択された宇宙条約にも影響を与えた。
南極条約体制の確立
南極条約第9条の具体化が南極条約協議国会議(ATCM)となる。ATCMによって、南極のあざらしの保存に関する条約や、南極の海洋生物資源の保存に関する条約等が採択された。これら南極に関する条約、議定書、勧告等の枠組みを南極条約体制という。
環境保護に関する南極条約議定書の採択
1970年代、地球環境保護への国際的関心が高まった。1974年、メキシコの化学者モリーナとアメリカの化学者ローランドが、フロンガスによるオゾン層の破壊を予想した。1982年、日本の調査隊が南極のオゾン層の減少(オゾンホール)を発見した。
1995年、モリーナとローランドがオゾンホールの解明でノーベル賞を受賞した。以降フロンガスの生産が禁止され、南極観測が地球環境の保護につながった。南極観測の重要性が注目されるにつれて、南極地域の環境保護もATCMで議論された。
1991年、環境保護に関する南極条約議定書が採択、1998年に発効された。この議定書の主な内容には、在来生物の採取・捕獲・有害な干渉の禁止(第3条)、生きた外来生物の持ちこみ禁止(第4条)、科学的調査を除く鉱物資源採取の禁止(第7条)がある。
南極隕石
南極で見つかる隕石を南極隕石という。南極隕石は氷上にあり目立つため、地球で発見された隕石の約8割を占める。またその多くは氷に守られ保存状態が良いことから、約46億年前の太陽系形成初期の状態を知る手がかりとして、調査が進められている。
議定書にある通り、南極では科学的調査のための鉱物資源の採取は認められている。しかし2000年頃、南極隕石がオークションサイトに出品され問題となった。ちなみに、隕石は砂漠でも目立つため見つかりやすい。
犬ぞり
かつて南極での移動手段に犬ぞりがあったが、議定書の発効により外来生物の持ち込みが禁止となり利用できなくなった。現在、南極での主な移動手段は雪上車となっている。
国内法の整備
1997年、日本で議定書の内容を達成するために、南極地域の環境の保護に関する法律が制定された。この法律により日本人が南極を訪れる場合、環境省への届け出等が義務付けられた。このように、条約を締結するために国内で必要になる法律を担保法という。
南極条約体制の課題
南極条約締結から50年以上がたち、新たな課題が出てきている。
観光
2000年頃から、南極の観光客が急増し環境への影響が懸念されている。たとえば、観光用の航空機の墜落や船の沈没といった事故が発生し、部品の散乱や燃料の流出等の汚染が問題となった。そのためATCMで規制強化等の議論が進められている。
バイオプロスペクティング
自然界から医薬品等に利用できる有用な資源を探し出す行為を、バイオプロスペクティングという。たとえば、スイスの製薬会社が開発した免疫抑制剤シクロスポリンは、ノルウェーの土壌から採取したカビが作り出す物質で、主に臓器移植に用いられる。
このように資源提供国と資源利用国が異なる場合、資源提供国へも利益を配分することが生物多様性条約という国際法に定められている。しかし南極には領土問題が存在するため、資源提供国が明確ではない。そのためATCMで議論が進められている。
動物裁判とは?わかりやすく5分で解説
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動物裁判とは、主に中世ヨーロッパで行われていた動物が当事者の裁判のこと。
背景
中世ヨーロッパでは、神意によって善悪を判断する裁判(神判)が行われていた。神意の確認方法には、火審、水審、聖餐審、決闘審、クロス審等がある。このように、当時ヨーロッパの裁判は宗教の影響を強く受けていた。
火審(熱鉄審)
熱湯の中の指輪を素手で取り、やけどの状態が軽ければ無罪、重ければ有罪となる。熱した鉄を握らせる方法等もある。
水審
手足を縛り水に沈め、浮けば有罪沈めば無罪となる。魔女狩りの際に多く用いられた。これは魔女は空を飛ぶために軽いとされていたため。
聖餐審
パンやチーズを飲み込み、喉につまらなければ無罪となる。
決闘審
決闘の勝者が勝訴となる。
クロス審
手を水平に伸ばし十字架の形を取り、先に腕を下げた方が敗訴となる。
キリスト教の考え
旧約聖書の出エジプト記21章28節には、牛による殺人は牛の罪となり持ち主の罪ではないとの記述がある。このことから、動物の罪は動物自身が償うという考えがあったとされる。また、悪魔が人間や動物に変身し悪行を働くということも信じられていた。
動物裁判の流れ
動物裁判の流れには大きく2種類ある。1つは人間と同様に逮捕、起訴、弁護人の専任、裁判の流れ。拷問もあったという。もう1つはネズミや昆虫等集団が対象の場合で、普段生息している場所を訪れ大声で出廷を命じる。裁判には欠席となるが弁護人はつく。
後者の場合、直接処罰ができないため退去命令を下した後、聖水の散布や呪いの言葉をかけ、破門とするのが通例。破門は当時のヨーロッパ社会で最大の罰とされ、ローマ王でさえも破門解除のためローマ教皇に赦しを願ったことがある(カノッサの屈辱)。
判例
以下に現代も含む裁判の事例を示す。
昆虫
1120年、フランスで毛虫がブドウ畑を荒らした罪で裁判にかけられた。裁判所は毛虫に破門判決を下した。1587年、フランスでゾウムシがブドウ畑を荒らした罪で裁判にかけられた。詳細は不明だがゾウムシのために新しい土地を準備する記述が残っている。
ブタ
1457年、ブタ親子が幼児を食い殺した罪で裁判にかけられた。裁判所は母ブタに死刑判決を下したが、子ブタは証拠不十分と未成年を理由に無罪とした。1494年、フランスでブタが赤ん坊を食い殺した罪で裁判にかけられた。裁判所はブタに死刑判決を下した。
鶏
1474年、スイスで雄鶏が悪魔的で不自然な産卵の罪で裁判にかけられた。裁判所は雄鶏に死刑判決を下した。
モグラ
1510年、イタリアでモグラが畑を荒らした罪で裁判にかけられた。弁護士はモグラが害虫を食べる有益な動物と主張し、裁判所はモグラに代替地の提供と安全通行権の授与、妊娠しているモグラと子供のモグラには14日の猶予期間を与えた。
ネズミ
1510年、フランスでネズミが畑を荒らした罪で裁判にかけられた。弁護士はネズミが出廷する際、猫や犬に襲われ命を危険にさらす可能性があると主張し、裁判所は裁判の無期限の延期を決定した。
牛
1621年、ドイツで牛が女性を押し倒し殺害した罪で裁判にかけられた。裁判所は牛に死刑判決を下した。
ロバ
1750年、フランスで男性とロバが獣姦の罪で裁判にかけられた。証人によってロバの普段の行儀のよい振る舞いが証言されたことで被害者と認められ、無罪となった。男性は死刑となった。
ウサギ
1995年、日本でアマミノクロウサギ等の動物の代理人(自然保護団体)が、森林伐採禁止等の自然保護を求め裁判をおこした。日本の法律では動物が原告にはなれないため、裁判所は訴えを却下したが、国民の目を集め自然保護団体の狙いはある程度達成された。
猫
2006年、アメリカで猫が複数の人を傷つけた罪で裁判にかけられた。裁判所は猫に接近禁止命令を下し自宅軟禁となった。
熊
2008年、マケドニアで熊が養蜂家から蜂蜜を盗んだ罪で裁判にかけられた。裁判所は熊に14万デナール(約35万円)の損害賠償の支払いを命じた。熊は野生で所有者がいなかったため、保護動物に指定している国が損賠賠償を支払うことになった。
猿
2015年、アメリカでクロザルの代理人(動物保護団体)が、クロザルの自撮り写真の著作権がクロザル自身にあると訴え裁判を起こした。裁判所は、著作権は動物には適用されないとして、訴えを却下した。
2017年、アメリカでチンパンジーの代理人(動物保護団体)が、人間と同じ権利を求め裁判をおこした。裁判所は、チンパンジー自らが行動に法的責任を持つことは不可能として、訴えを却下した。
無生物の裁判
無生物に対しても裁判は行われている。古代ギリシャでは、像が落下して人を殺したとして有罪判決を受け海に投げ込まれた。1591年ロシアでは、王子が死亡した際に祝福で鳴らされた鐘が反逆罪でシベリア送りになった。